若い頃、私は平和を叫ぶデモのそばで、機動隊に怒鳴られたことがある。
通りの向こうではヘルメット姿の学生たちがシュプレヒコールを繰り返し、その前に黒い盾を並べた機動隊が壁のように立っていた。何となくその様子を見ていただけの私に、突然、機動隊員の一人が怒鳴った。
「そんな所にいないで、出て行け!」
デモ隊でも何でもなかったが、現場のすぐそばに立っていたせいだろう。私は慌ててその場を離れた。
そのとき妙な感覚を覚えた。彼らは平和を叫んでいるのに、顔は戦いの顔をしていたのである。
彼らはそれを「闘争」と呼んだ。しかし私には、それが戦争とどれほど違うのか分からなかった。
平和を唱えれば平和になるのだろうか。
自分を攻撃しようとする力に向かって、ただ平和だと言い張れば、相手はその手を止めるのだろうか。
もしそれが可能だとするなら、そこには「平和」という言葉以上の何かがあるはずだ。
相手の敵意を溶かしてしまうような、人間の力である。
究極には、人の胆力のようなものがそれを成すのかもしれない。
そういう可能性を私は否定しない。
だがそれは、念仏のように平和を唱えることとは違う。
本当に命を懸ける覚悟を伴った力だ。
その頃の私は、命というものの不思議さに強く心を打たれていた。
人が生きているということ、それ自体が奇跡のように思えた。
だから思想や正義よりも、命そのもののほうが大きく感じられていたのである。
年を重ねてもなお、その考えに固執する人もいる。
変わらないことを美徳とするなら、長い時間を生きて何を学んできたのだろうとも思う。
右翼も左翼も、結局は心の平和とは別の次元の観念にすぎないように見える。
この世界から戦争は尽きない。
歴史を振り返れば、政治や国家というものは、まるでアメーバーのように形を変えながら争い続けてきた。
なぜそうなのか。理解できないと言って済ませてしまっていいのだろうか。
まず自分の内側は平和なのか。人はなぜ争うのか。その問いを見ないまま、ただ争いを否定し、上から目線で平和を語っても、どこか空虚な響きしか残らない。
若い頃、ガンジーという存在に深く心を動かされた時期もあった。
しかし七十八歳になった今、その姿さえ遠いイメージの中にある。
熱狂の中では見えないものがある。
歳月とは、人の確信を静かに遠ざけていくものなのかもしれない。