2005年 04月 25日
アートの本末転倒 |
誤解を恐れずに言いますと、私は神と対面したことがあります。
子供の頃から、この世界がなんでこんなに出来上がってるんだか不思議に感じていて
そこに、神の存在を疑わせないものがありました。
学生の頃、強力な神秘体験をしたときに、それは決定的になりました。
幼稚園はお寺でした。少し後になってウチの母や姉はクリスチャンになりました。
ウチで聖書の研究会なども良く行われていました。
でも、自分が直接感じた事とかみ合う話は聞いたことはないです。
神を見た私に神のうわさ話をしても、全然リアリティーなど感じるわけもありません。
神は人間みたいな形もしてないし、言葉を発しもしないし、ああしろこうしろとも言わないし
答えを見せようともしない。ただ、命をつないでいるだけのように思います。
だから、色々な神に対するうわさ話には興味ありません。
キリスト教もイスラム教も仏教も、うわさ話です。
秩序を作るために神という観念を利用するのが良いのか悪いのか、私は関知したくありませんが
人の群れを治めるためには、有効な手段なのでしょう。
勘で生きることは、凄く大切だと思うよ。
言葉だけでものを考えるのと、すごく低いレベルで限界が生じるみたい。
頭で考えてもギターはうまくなりません。これ、まちがいない。
センサーがクリアに働いていればこそ、考えることも有効なのです。
理論は、すべて感性で捉えた事象の説明から生まれるもので
音楽で言えば、実際の音ではなく楽譜のようなものです。
楽譜は音楽じゃない。言葉でアートを説明する人が居ますが、元々はビジネスに絡んでいるはずです。
じゃなきゃ、そんな意味のない事をものの解った人がするわけがないでしょう。
絵や彫刻で言えば、そのものではなく習作、図面、設計図のようなもの。
情報量としては計り知れないほど、少ないのです。
考えることと思うことは違うと思います。
感じる情報を表現しようとするのがアートの原点だと思うのだけど、
先に言った図面や楽譜が、妙に幅をきかせているのは残念なことです。
本末転倒の教育が行われてきた弊害でしょう。
子供の頃から、この世界がなんでこんなに出来上がってるんだか不思議に感じていて
そこに、神の存在を疑わせないものがありました。
学生の頃、強力な神秘体験をしたときに、それは決定的になりました。
幼稚園はお寺でした。少し後になってウチの母や姉はクリスチャンになりました。
ウチで聖書の研究会なども良く行われていました。
でも、自分が直接感じた事とかみ合う話は聞いたことはないです。
神を見た私に神のうわさ話をしても、全然リアリティーなど感じるわけもありません。
神は人間みたいな形もしてないし、言葉を発しもしないし、ああしろこうしろとも言わないし
答えを見せようともしない。ただ、命をつないでいるだけのように思います。
だから、色々な神に対するうわさ話には興味ありません。
キリスト教もイスラム教も仏教も、うわさ話です。
秩序を作るために神という観念を利用するのが良いのか悪いのか、私は関知したくありませんが
人の群れを治めるためには、有効な手段なのでしょう。
勘で生きることは、凄く大切だと思うよ。
言葉だけでものを考えるのと、すごく低いレベルで限界が生じるみたい。
頭で考えてもギターはうまくなりません。これ、まちがいない。
センサーがクリアに働いていればこそ、考えることも有効なのです。
理論は、すべて感性で捉えた事象の説明から生まれるもので
音楽で言えば、実際の音ではなく楽譜のようなものです。
楽譜は音楽じゃない。言葉でアートを説明する人が居ますが、元々はビジネスに絡んでいるはずです。
じゃなきゃ、そんな意味のない事をものの解った人がするわけがないでしょう。
絵や彫刻で言えば、そのものではなく習作、図面、設計図のようなもの。
情報量としては計り知れないほど、少ないのです。
考えることと思うことは違うと思います。
感じる情報を表現しようとするのがアートの原点だと思うのだけど、
先に言った図面や楽譜が、妙に幅をきかせているのは残念なことです。
本末転倒の教育が行われてきた弊害でしょう。
by voice-of-sora
| 2005-04-25 09:35