2006年 11月 30日
闘争心 |
心根に闘争心旺盛という人はいるものだ。
その、ほとんど全ては自らに義があると信じている。
だから、悪を決定的なものとして、敵にして戦う。
戦うものは、自らに疑問を挟まない。
相手に義があるのではという考えは士気を下げてしまう。
実際は、100%悪や100%善などないのだ。
100%悪を悪魔としても、生まれてこのかた悪ばかりやるなんて不可能だ。
その逆も同じである。自分は悪いことを一切したことがないという人がいたら、反省のない危険な人か、感受性で貧弱で未だ幼児的単純で生きているかであろう。
ドングリの背比べという言い方がある。
現実の人間社会など、まさにドングリの背比べだと思うのだが、分けて考えるのが好きなのが、また人間である。ちょっとした違いが差別や敵視になる。
ジャンル分け、分類、位などを作るのが人の知の習性である。
また、それに長けたものが、今の競争社会では優秀とされる。
そのような不幸な感情は何故生まれるのだろう。
その、ほとんど全ては自らに義があると信じている。
だから、悪を決定的なものとして、敵にして戦う。
戦うものは、自らに疑問を挟まない。
相手に義があるのではという考えは士気を下げてしまう。
実際は、100%悪や100%善などないのだ。
100%悪を悪魔としても、生まれてこのかた悪ばかりやるなんて不可能だ。
その逆も同じである。自分は悪いことを一切したことがないという人がいたら、反省のない危険な人か、感受性で貧弱で未だ幼児的単純で生きているかであろう。
ドングリの背比べという言い方がある。
現実の人間社会など、まさにドングリの背比べだと思うのだが、分けて考えるのが好きなのが、また人間である。ちょっとした違いが差別や敵視になる。
ジャンル分け、分類、位などを作るのが人の知の習性である。
また、それに長けたものが、今の競争社会では優秀とされる。
そのような不幸な感情は何故生まれるのだろう。
by voice-of-sora
| 2006-11-30 15:49