2011年 05月 22日
放射能 |
3.11の福島第一原子力発電所事故が続いている。私の住んでいる東京でさえ、放射能の汚染が起こっていて、もう取り返しの付かない状態であるのかも知れない。政府の言うことは、何か正直な感じがせず、つまらない事情優先で正に隠蔽が起きているのは、誰の目にも明らかではないか。
多くの人が喉の痛みや咳を訴えだしたが、これがなんなのか誰にも解らない。
風邪や黄砂の影響?花粉?なんとでも言えるだろうが、放射性物質の影響でないとも言えない。
今や科学者もいい加減なことを言う群れであることも明らかになり、特に東大の原子力関係者などは、全くのゲスの集まりに過ぎないことも解った。信じるに値しない学者が多すぎて、この社会にとって非常に害になっている。
この物質優先の腐敗しきった社会にとって、真摯な研究者というものは、いかに少ないのか、そして、その人達は社会的地位も低い所のままにされていることも露骨に見えてきた。
まだ、そういう人達がいてくれて、少しは救いであったが、事故後の今となっては残念というしかない。
今現在、放射性物質は原発より放出され続け、広大な地域に降り注ぎ、多くの命が、その危険にさらされ続けている。見えない敵を過大にも過小にも評価されるが、結果はそう簡単には判らないし、結果さえ正しく知らされるかどうか、甚だ疑問である。
こういう環境は私にとって初めてのように思っていたが、実は、以前にもあったことを思い出した。
何しろアメリカだけでも、数百回、ソビエト、イギリス、フランスと数え切れない核実験が行われた時期があるのだ。有名な第五福竜丸の事件など1954年で私が小学校に入る時期である。その後も56年、58年と太平洋で実験が行われている。普通に考えても、どれだけの範囲に放射性物質が降り注いだことだろう。
超大国のやることは、今以上に情報は封鎖されていただろうし、巨大な狂気の時代である。いまだに終わっていないのかも知れないが。
子供の頃、放射能の雨が降るから雨には濡れないようにという注意がされていた。
髪が抜けるぞと脅かされてもいた。程度の問題はあろうとも、かなりの危機感があったのだと思う。
でも、今回の事件のせいで、その時期からもう、日本に核を持ち込もうとする企みがあったことも判ってきた。
読売新聞の社主、正力松太郎がCIAであったことも、彼がアメリカの意向で被爆国日本に平和利用と称して巨大利権の原発建設を企画し、中曽根康弘がそれを推進した事。アメリカの属国日本、さもしい連中だ。
やはりCIAのエージェントであった児玉誉士夫など、アメリカの手先が右翼の体裁をとるというのは、なんとも皮肉なことだ。売国者は愛国者を騙るのである。
私は、まだ、幼稚園にも行かない頃にアデノイドということで、手術を受けたのを憶えている。
憶えているのは、母親の背中に負んぶされ、口に血で真っ赤なハンカチを当てて家に帰るシーンのみであるが
あれは、なんだったんだろう。アデノイドという言葉だけ覚えている。
Wikiで調べたが咽頭扁桃肥大症という事くらいしかわからない。
とにかく、喉の異常だったのは確かである。
私は、小学6年生の頃、学校の校庭でサッカー遊びをやっていて、なんとも気分が悪くなり
なんとか家まで歩いて戻り、玄関で母親に「気分が悪い」と言って、そのまま気を失ってしまったことがあるのだ。流行性肝炎ということで、毎日往診に来てくれた医師に、それから2ヶ月ほど毎日グロンサンとブドウ糖の注射を血管に打たれ続けた。毎日毎日、貧血状態でトイレに行こうとして立ち上がり、そのまま真っ暗になって倒れたことも数え切れない。医者は栄養のある物を食べるようにと母に言うのだが、私は何を見ても食欲は湧かず、唯一積極的に食べれたのは、クラッカーに蜂蜜をつけたものくらいであった。辛い思い出である。
この経験は、私の人生の根底に何か大きな影響を与えているような気がする。
その後あたりから、私は偏頭痛持ちになった。
中学生時代などは、それが非常に頻繁に起こり、毎日、何度かは頭痛の嵐に耐えていたのだ。
まず、目がチラチラし出して、その後強力な痛みがやってくる。
それを何年も大人になるまで、いや大人になってもそれは続いていた。
大学の為、上京し、一人暮らしを始め、銭湯に行くようになっても、かならず風呂で貧血状態を経験していた。
目の前が真っ暗になっても、なんとか倒れずに耐えることを憶えたが、毎回のことだった。
今でも目がちらつくことはあるが、それが頭痛につながらなくなってきた。
どこかで、感覚的に避ける方法を見つけたのかも知れない。
なにしろ、このことは私の人生につきまとってきたものなのだ。
放射能という怪物は、もしかするとオレの人生の初期から、影響を与えていたのではという疑惑を持ち始めてしまった。こればかりは、なんとも言えないことは解っているが、関係ないですよと東大教授などに言われても、まったく、気休めにもならないことはたしかである。
多くの人が喉の痛みや咳を訴えだしたが、これがなんなのか誰にも解らない。
風邪や黄砂の影響?花粉?なんとでも言えるだろうが、放射性物質の影響でないとも言えない。
今や科学者もいい加減なことを言う群れであることも明らかになり、特に東大の原子力関係者などは、全くのゲスの集まりに過ぎないことも解った。信じるに値しない学者が多すぎて、この社会にとって非常に害になっている。
この物質優先の腐敗しきった社会にとって、真摯な研究者というものは、いかに少ないのか、そして、その人達は社会的地位も低い所のままにされていることも露骨に見えてきた。
まだ、そういう人達がいてくれて、少しは救いであったが、事故後の今となっては残念というしかない。
今現在、放射性物質は原発より放出され続け、広大な地域に降り注ぎ、多くの命が、その危険にさらされ続けている。見えない敵を過大にも過小にも評価されるが、結果はそう簡単には判らないし、結果さえ正しく知らされるかどうか、甚だ疑問である。
こういう環境は私にとって初めてのように思っていたが、実は、以前にもあったことを思い出した。
何しろアメリカだけでも、数百回、ソビエト、イギリス、フランスと数え切れない核実験が行われた時期があるのだ。有名な第五福竜丸の事件など1954年で私が小学校に入る時期である。その後も56年、58年と太平洋で実験が行われている。普通に考えても、どれだけの範囲に放射性物質が降り注いだことだろう。
超大国のやることは、今以上に情報は封鎖されていただろうし、巨大な狂気の時代である。いまだに終わっていないのかも知れないが。
子供の頃、放射能の雨が降るから雨には濡れないようにという注意がされていた。
髪が抜けるぞと脅かされてもいた。程度の問題はあろうとも、かなりの危機感があったのだと思う。
でも、今回の事件のせいで、その時期からもう、日本に核を持ち込もうとする企みがあったことも判ってきた。
読売新聞の社主、正力松太郎がCIAであったことも、彼がアメリカの意向で被爆国日本に平和利用と称して巨大利権の原発建設を企画し、中曽根康弘がそれを推進した事。アメリカの属国日本、さもしい連中だ。
やはりCIAのエージェントであった児玉誉士夫など、アメリカの手先が右翼の体裁をとるというのは、なんとも皮肉なことだ。売国者は愛国者を騙るのである。
私は、まだ、幼稚園にも行かない頃にアデノイドということで、手術を受けたのを憶えている。
憶えているのは、母親の背中に負んぶされ、口に血で真っ赤なハンカチを当てて家に帰るシーンのみであるが
あれは、なんだったんだろう。アデノイドという言葉だけ覚えている。
Wikiで調べたが咽頭扁桃肥大症という事くらいしかわからない。
とにかく、喉の異常だったのは確かである。
私は、小学6年生の頃、学校の校庭でサッカー遊びをやっていて、なんとも気分が悪くなり
なんとか家まで歩いて戻り、玄関で母親に「気分が悪い」と言って、そのまま気を失ってしまったことがあるのだ。流行性肝炎ということで、毎日往診に来てくれた医師に、それから2ヶ月ほど毎日グロンサンとブドウ糖の注射を血管に打たれ続けた。毎日毎日、貧血状態でトイレに行こうとして立ち上がり、そのまま真っ暗になって倒れたことも数え切れない。医者は栄養のある物を食べるようにと母に言うのだが、私は何を見ても食欲は湧かず、唯一積極的に食べれたのは、クラッカーに蜂蜜をつけたものくらいであった。辛い思い出である。
この経験は、私の人生の根底に何か大きな影響を与えているような気がする。
その後あたりから、私は偏頭痛持ちになった。
中学生時代などは、それが非常に頻繁に起こり、毎日、何度かは頭痛の嵐に耐えていたのだ。
まず、目がチラチラし出して、その後強力な痛みがやってくる。
それを何年も大人になるまで、いや大人になってもそれは続いていた。
大学の為、上京し、一人暮らしを始め、銭湯に行くようになっても、かならず風呂で貧血状態を経験していた。
目の前が真っ暗になっても、なんとか倒れずに耐えることを憶えたが、毎回のことだった。
今でも目がちらつくことはあるが、それが頭痛につながらなくなってきた。
どこかで、感覚的に避ける方法を見つけたのかも知れない。
なにしろ、このことは私の人生につきまとってきたものなのだ。
放射能という怪物は、もしかするとオレの人生の初期から、影響を与えていたのではという疑惑を持ち始めてしまった。こればかりは、なんとも言えないことは解っているが、関係ないですよと東大教授などに言われても、まったく、気休めにもならないことはたしかである。
by voice-of-sora
| 2011-05-22 06:43