2013年 08月 20日
「風立ちぬ」を観た。 |
この映画を観て、すぐ思ったことは、これは複雑で、一筋縄では解釈など出来ない映画だという事だった。
最後のユーミンの「ひこうき雲」があるせいで、誤解への揺れが、ゆっくり抑えられた気がする。
エンドロールに読売新聞、日本テレビ、電通、博報堂、ディズニーと並んで出て
くる所で複雑な気分になったけれど、三菱の零戦などを、まともに出した宮崎駿の意図を単純に早急に判断してはいけないなと思ったのだ。こりゃ、難しいぞと。
私は、ジブリ発行の「熱風」で宮崎の憲法に対する考えも読んだ。
宮崎は原発には明確に反対し憲法堅持も明確に表明している事を知っている。
それでこの映画である。
普通、単純に原発企業だの推進マスコミなどと批判したくなる名前を、わざわざ出していることの意味を思わざるを得なかった。
彼は視聴者に、簡単な図式で判断するならすればいいが、それが真実なのかどうかなんて怪しいもんだよ。
自分でよく考えて、判断しなければ、何かに簡単に流されてしまうのでは、とあのような表現をしたということはないだろうか。
画一的な、考えや意見では、311後、もう先が見えない、もっと、根本に戻る必要がある。
彼が映画を作る事と主人公が飛行機を作る事がダブっていることは当然だろうし、
それを作るために企業からの費用協力を受ける。でなければ映画や飛行機は作れない。
その事で第三者が簡単な図式で批判することは簡単だが、魂を売るわけではないという自負があっての表現なのかもしれない。
ただ、三菱だから読売だからということで、その金は使わないといえば、きれい事では筋は通るのだが、現実に映画や飛行機は作れないで、筋だけ通して何もしない万年野党みたいな事にならないか。
その映画や飛行機が本質としては政治的な利害と別次元の表現行為であれば、アートの歓びと言えるのではないか。例えば、核研究者がみんな原子力村に属して、ウソをいってるわけではなく、研究しているからこそ、明確にその知識や技術を廃炉に向けようとする人もいるし、的確な批判も出来る。本質は純粋さであり、なんでも邪悪に利用されたと非難できるものではない。
アーチストや技術者として、仕事が出来ないという事は、自分の得意な表現も出来ないということ。
それは自由を失うということ。可能性を失うということではないか。
きれいな飛行機を作りたい。いい作品を作りたい。いい機械を作りたい。
そういう純粋なエモーションと、それに付きまとう別の政治的な側面や利害関係の側面そして時代。
後者のために、それ自体を捨てればいいと第三者は言いがちだが、本当にそうなんだろうか。
311以降、いろんな問題があぶり出されてきて、この文明の病巣も複雑にからんで拡がっていることが解ってきた。
それこそ、浪費=豊かさみたいな価値観の煽り合いが社会に狂気を起こし、システム自体が、それに対応しようと多くに人々を巻き込んで成り立っている。
批判するべき事は,確かに数多く存在し、無駄だらけのゴミの山を生産している。
それをやっているのは、誰かではなく、私達全員なのだ。ここに、タダ単なる被害者はいないと理解することが非常に大事な事である。
しかし、多くの人達は、自分はまるで別世界に生きていたような立場から批判や否定を繰り返す。それでは、なんの解決にも向かわない。
私は、宮崎駿が、自分だけきれいな所に身を置いて、実際には大したことも出来ずにいる野党みたいにはなりたくなかったのではと思うに至った。
タバコのことも問題にする人達もいたようだが、アレでタバコを押さえ込んだら、まるで隠蔽みたいなものだ。
昔は、タバコ人口は非常に多く、ほとんどの人が吸っていたし、そういう時代だったのだから。
ただ、あの主人公は、実際はタバコを吸わない人だったそうなのだ。
その話を聞いて、私は宮崎が、わざとやったんだと思い当たった。
昨今のタバコ排撃には,何か異常さえ感じる空気がある。タバコを吸わない私でさえそう感じるのだ。タバコを吸う人を、必要以上にさげすむ空気が無いと言えるか。
戦争だって、似たような流れで進むのではないかと感じたとしたら。
宮崎駿は、わざとそれを利用して論争の種を撒いたのでは、いや、そうだ、きっとそうだ。
悪いと思うから、見せないようにするという手法は、権力者など好きそうじゃないか。決まりに寄りかからず、人と人同士の思いやりで、解決しても良いのではないだろうか。結核の彼女に遠慮して、外で吸おうとした主人公に、構わないから側にいて欲しいと願った彼女。そこで、タバコの問題を持ち出すのって、形式主義過ぎると思う。心を感じないほどに建前を持ち出すのは、ちょっと怖い。
まだ、意見は固まらないのだが、宮崎駿、今回は大きく謎かけをしてるような気がしてならない。
311があったのだ。原発を作ってきた国や電事連を支えてきたのは、私をも含む、愚民達だ。
例え、80年頃から原発に反対してきたという自負があろうとも、その責任の一端を逃れることの出来る国民は子供を除いていないのだ。
やりたいことのある人が、それをやるために何を利用して、なんで稼ぎ、何の恩恵に浴してきたか、それを忘れての批判には力がなかろう。
きれい事と、本当の意志の違いを、観る人の心に問いかけをしているような映画のようだ。
この、映画、もしかするととんでもない、すごさを持ったものかも知れない。
最後のユーミンの「ひこうき雲」があるせいで、誤解への揺れが、ゆっくり抑えられた気がする。
エンドロールに読売新聞、日本テレビ、電通、博報堂、ディズニーと並んで出て
くる所で複雑な気分になったけれど、三菱の零戦などを、まともに出した宮崎駿の意図を単純に早急に判断してはいけないなと思ったのだ。こりゃ、難しいぞと。
私は、ジブリ発行の「熱風」で宮崎の憲法に対する考えも読んだ。
宮崎は原発には明確に反対し憲法堅持も明確に表明している事を知っている。
それでこの映画である。
普通、単純に原発企業だの推進マスコミなどと批判したくなる名前を、わざわざ出していることの意味を思わざるを得なかった。
彼は視聴者に、簡単な図式で判断するならすればいいが、それが真実なのかどうかなんて怪しいもんだよ。
自分でよく考えて、判断しなければ、何かに簡単に流されてしまうのでは、とあのような表現をしたということはないだろうか。
画一的な、考えや意見では、311後、もう先が見えない、もっと、根本に戻る必要がある。
彼が映画を作る事と主人公が飛行機を作る事がダブっていることは当然だろうし、
それを作るために企業からの費用協力を受ける。でなければ映画や飛行機は作れない。
その事で第三者が簡単な図式で批判することは簡単だが、魂を売るわけではないという自負があっての表現なのかもしれない。
ただ、三菱だから読売だからということで、その金は使わないといえば、きれい事では筋は通るのだが、現実に映画や飛行機は作れないで、筋だけ通して何もしない万年野党みたいな事にならないか。
その映画や飛行機が本質としては政治的な利害と別次元の表現行為であれば、アートの歓びと言えるのではないか。例えば、核研究者がみんな原子力村に属して、ウソをいってるわけではなく、研究しているからこそ、明確にその知識や技術を廃炉に向けようとする人もいるし、的確な批判も出来る。本質は純粋さであり、なんでも邪悪に利用されたと非難できるものではない。
アーチストや技術者として、仕事が出来ないという事は、自分の得意な表現も出来ないということ。
それは自由を失うということ。可能性を失うということではないか。
きれいな飛行機を作りたい。いい作品を作りたい。いい機械を作りたい。
そういう純粋なエモーションと、それに付きまとう別の政治的な側面や利害関係の側面そして時代。
後者のために、それ自体を捨てればいいと第三者は言いがちだが、本当にそうなんだろうか。
311以降、いろんな問題があぶり出されてきて、この文明の病巣も複雑にからんで拡がっていることが解ってきた。
それこそ、浪費=豊かさみたいな価値観の煽り合いが社会に狂気を起こし、システム自体が、それに対応しようと多くに人々を巻き込んで成り立っている。
批判するべき事は,確かに数多く存在し、無駄だらけのゴミの山を生産している。
それをやっているのは、誰かではなく、私達全員なのだ。ここに、タダ単なる被害者はいないと理解することが非常に大事な事である。
しかし、多くの人達は、自分はまるで別世界に生きていたような立場から批判や否定を繰り返す。それでは、なんの解決にも向かわない。
私は、宮崎駿が、自分だけきれいな所に身を置いて、実際には大したことも出来ずにいる野党みたいにはなりたくなかったのではと思うに至った。
タバコのことも問題にする人達もいたようだが、アレでタバコを押さえ込んだら、まるで隠蔽みたいなものだ。
昔は、タバコ人口は非常に多く、ほとんどの人が吸っていたし、そういう時代だったのだから。
ただ、あの主人公は、実際はタバコを吸わない人だったそうなのだ。
その話を聞いて、私は宮崎が、わざとやったんだと思い当たった。
昨今のタバコ排撃には,何か異常さえ感じる空気がある。タバコを吸わない私でさえそう感じるのだ。タバコを吸う人を、必要以上にさげすむ空気が無いと言えるか。
戦争だって、似たような流れで進むのではないかと感じたとしたら。
宮崎駿は、わざとそれを利用して論争の種を撒いたのでは、いや、そうだ、きっとそうだ。
悪いと思うから、見せないようにするという手法は、権力者など好きそうじゃないか。決まりに寄りかからず、人と人同士の思いやりで、解決しても良いのではないだろうか。結核の彼女に遠慮して、外で吸おうとした主人公に、構わないから側にいて欲しいと願った彼女。そこで、タバコの問題を持ち出すのって、形式主義過ぎると思う。心を感じないほどに建前を持ち出すのは、ちょっと怖い。
まだ、意見は固まらないのだが、宮崎駿、今回は大きく謎かけをしてるような気がしてならない。
311があったのだ。原発を作ってきた国や電事連を支えてきたのは、私をも含む、愚民達だ。
例え、80年頃から原発に反対してきたという自負があろうとも、その責任の一端を逃れることの出来る国民は子供を除いていないのだ。
やりたいことのある人が、それをやるために何を利用して、なんで稼ぎ、何の恩恵に浴してきたか、それを忘れての批判には力がなかろう。
きれい事と、本当の意志の違いを、観る人の心に問いかけをしているような映画のようだ。
この、映画、もしかするととんでもない、すごさを持ったものかも知れない。
by voice-of-sora
| 2013-08-20 10:44